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県庁所在地:鳥取市東町1-220
面積:3,507平方q 人口:591人(H17年)
県花:二十世紀梨 県木:ダイセンキャラボク |
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鳥取城[通称:久松城]
城郭構造:梯郭式平山城・山城
天守構造:独立式望楼型3重
築城主:但馬山名氏?
築造年:1532〜1555年間(天文年間)
遺構:石垣、堀、井戸
指定文化財:国の史跡
再建造物:門
所在地:鳥取県鳥取市東町
アクセス:JR山陰本線「鳥取」駅から日交バス、日の丸バス「砂丘・湖山方面行」で5分「西町」下車、徒歩約5分、山頂までは30分
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北御門 |
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二の丸石垣 |
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二の丸三階櫓石垣 |
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仁風閣 |
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鳥取城(日本100名城63) |
鳥取城は戦国大名の山名氏が築いた城で、江戸時代は池田氏12代の居城でした。今も残る山門や石垣などが往時を偲ばせています。
鳥取城には次にような有名な話が史実として残されています。
「鳥取城飢え殺し」という織田信長陣営対毛利輝元陣営の戦いがあった。1581年(天正九年)攻める羽柴秀吉は、兵糧攻め作戦を取り毛利陣営を追い詰める。籠城(ろうじょう)する兵士1000人家族農民3000人という人たちが食料を断たれて3ヶ月草木まで食べつくす無残な修羅場と城内はなった。もはや限界と、毛利家から送られた藩主吉川経家は、城兵一同の助命と引き換えに、切腹する。 |
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県庁所在地:松江市殿町1番地
面積:6,707平方q 人口:720千人(H17年)
県花:牡丹 県木:黒松 |
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名称:松江城
城郭構造:輪郭連郭複合式平山城
天守構造:複合式5重6階望楼型
築城主:堀尾中氏
築造年:1611年(慶長16年)
遺構:天守、石垣、堀
指定文化財:国の重要文化財(天守),国の史跡
所在地:島根県松江市殿町
アクセス:JR松江駅からレイクラインバス
松江城大手前下車すぐ |
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本丸への一ノ門 |
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興雲閣(松江郷土館) |
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二の丸石垣南櫓・西櫓 |
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松江歴史館 |
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松江城(日本100名城64) |
松江城は、別名「千鳥城」と呼ばれ全国に現存する12天守の一つで山陰地方では唯一の天守閣である。天守閣の平面は、姫路城についで2番目、高さは3番目、古さは6番目である。現在、国の指定重要文化財となっている。
12天守閣とは、弘前城(青森)、松本城(長野)、丸岡城(福井)、犬山城(愛知)、彦根城(滋賀)、姫路城(兵庫)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、松山城(松山) |
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月山富田城[通称:月山城、富田月山城]
城郭構造:複郭式山城
天守構造:なし
築城主:佐々木義清?
築造年:1185年(文治元年)頃?
遺構:石垣、曲輪、堀切、井戸
指定文化財:国の史跡
再建造物:石垣、侍所
所在地:島根県安来市広瀬町富田2188
アクセス:JR山陰本線「安来」駅からイエローバス「広瀬バスターミナル行」で約30分「私立病院前」下車、徒歩約10分 |
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山中御殿復元石垣 |
二段に分かれた三の丸石垣 |
二の丸跡の復元住宅 |
本丸跡 |
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月山富田城(日本100名城65) |
山陰の雄、尼子氏の本城で難攻不落の「月山富田城」
大内義隆が攻め、毛利元就が攻めたが、力攻めでは落とすことができず、元就は一度は領国の安芸に撤退するが、その後の戦いで力攻めではなく、兵糧攻めにより、難攻不落を誇った「月山富田城」を落城させることに成功する。
戦国時代の初めころには中国地方の覇者であり、180年間の栄華が続いた尼子氏は毛利氏の軍門に降り、事実上滅亡することとなった。 |
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名称:津和野城[通称:三本松城、石蕗城]
城郭構造:連郭式山城
天守構造:不明
築城主:吉見頼行
築造年:1295年(永仁3年)
遺構:櫓2棟、石垣、空堀
指定文化財:国の史跡
所在地:島根県鹿足郡津和野町後田
アクセス:JR山口線「津和野」駅から徒歩約20分で上り口、上り口からリフトと徒歩約15分で三十間台 |
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出丸 |
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三十間台への入口 |
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三十間台 |
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城跡から見る津和野市街 |
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津和野城(日本100名城66) |
1274年、1281年の2度にわたり蒙古軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防衛を吉見頼行に命じた。頼行は1282年(弘安5年)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、1295年(永仁3年)この城山山脈に築城を始めた。以後吉見氏は14代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪、堀切、竪堀、横堀などを構築して堅固な中世山城を築いた。
この山城は1554年(天文23年)の「三本松城の役」では大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100余日の籠城戦に耐えた。 吉見氏は関ヶ原合戦で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、わずか16年の間に、現在の本城と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。 |
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県庁所在地:岡山市内山下2-4-6
面積:7,113平方q 人口:1,943千人(H17年)
県花:ももの花 県木:アカマツ |
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津山城[通称:鶴山城]
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:独立式層塔型4重5階(非現存)
築城主:山名忠政
築造年:1441〜1444年(嘉吉年間)
遺構:石垣、堀
指定文化財:国の史跡
再建造物:備中櫓、堀
所在地:岡山県津山市山下
アクセス:JR津山線「津山」駅から徒歩約15分 |
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冠木門跡の津山城跡石碑 |
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三の丸 |
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天守台跡 |
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城内から見る備中櫓 |
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津山城(日本100名城67) |
1603年(慶長8年)美作・津山に入封してきた森忠政(織田信長の家臣森蘭丸の弟)が翌年から13年を費やして大城郭を完成させた。
森忠政は兄、森蘭丸の死去により森家の家督を継ぐこととなり、豊臣秀吉に仕えることになるが、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に味方し、秀忠軍に従軍した。戦後の論功行賞で津山18万6500石を与えられ、津山藩初代藩主となる。築城に13年の歳月を費やした津山城は、5重の天守を中心に77の櫓、41の門を擁した全国でも有数な規模を誇る実戦に備えた城であった。さらに、忠政は城下町整備にも力を入れ今日の津山市の基礎を築いたといわれている。 |
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名称:備中松山城[通称:高梁城]
城郭構造:連郭式山城>
天守構造:複合式望楼型2重2階>
築城主:秋葉重信
築造年:1240年(仁治元年)
遺構:現存天守、櫓、石垣、堀、土塁
指定文化財:国の重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
再建造物:櫓、門、堀>
所在地:岡山県高梁市内山下1
アクセス:JR伯備線「備中高梁」駅から徒歩約10分、下車後徒歩約20分 |
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大手門付近の石垣 |
本丸東御門 |
天守閣 |
二重櫓 |
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備中松山城(日本100名城68) |
備中松山城は、日本三大山城(備中松山城・大和高取城・美濃岩村城)の一つである。山頂の城跡に建物が残っているのは、三大山城の中でも備中松山城だけだ。
小振りながらもどっしりとした感じの二層天守、要所要所に築かれた櫓の中で二重櫓が現存し、また平櫓も復元されている。建物だけでなく、この城の高石垣は素晴らしい。特に大手門の枡形虎口周辺の石垣群は見ごたえがある。 |
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名称:鬼ノ城
城郭構造:神籠石式山城
天守構造:なし
築城主:伝;大和朝廷
築造年:7世紀後半?
遺構:石垣、土塁、水門
指定文化財:国の史跡
再建造物:門、石垣、土塁
所在地:岡山県総社市奥坂、黒尾
アクセス:JR吉備線「服部」駅から徒歩約5` |
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鬼ノ城西門遺構 |
山腹の鬼ノ城石垣 |
西門高石垣(復元中) |
鬼ノ城の案内板 |
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鬼ノ城(日本100名城69)> |
663年、朝鮮半島で百済に援軍をおくっていた日本は、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した。
そのため大和朝廷は、唐と新羅の連合軍に対する備えとして早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要があり、鬼ノ城もそれらの一つと考えられているが、日本書紀やその他古文献にも記載は無く詳細は不明である。
鬼ノ城は、標高400m以上の吉備高原の南縁に築かれており、眼下には総社平野と足守川中流域平野をのぞみ、瀬戸内から遠くは四国の山並みが望見される遠望絶景の地に立地している。
攻めるに難しく守るに易い地に、堅牢で緻密な城づくりをした難攻不落の朝鮮式山城である。 |
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名称:岡山城[別名烏(う)城]
城郭構造:梯郭式山城
天守構造:複合式望楼型4重6階
築城主:上神高直
築造年:1346-1369年(南北朝時代正平年間)
遺構:櫓、曲輪、石垣、堀
指定文化財:国の重要文化財(月見櫓、西の丸
西手櫓)
所在地:岡山県岡山市北区丸の内2丁目
アクセス:JR岡山駅東口より徒歩15分 |
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不明門(あかずのもん) |
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月見櫓(つきみやぐら) |
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本丸下段の石垣 |
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城内部 |
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岡山城(日本100名城70) |
岡山城は慶長2年(1597)豊臣五大老の一人宇喜多秀家が築城した。三重六階の堂々たる天守閣は織田信長の安土城天守閣を模して築かれたといわれている。
岡山城は、大坂城、広島城と並んで近世城郭のさきがけともいわれており黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」とも呼ばれている。旭川を挟んで対岸には日本三名園の一つ「後楽園」がある。 |
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名称:備中高松城
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:なし
築城主:石川氏
築造年:不明
遺構:水攻め堰堤の一部
指定文化財:国の史跡
所在地:岡山県岡山市北区高松558-2
アクセス:JR吉備線備中高松駅から徒歩約10分 |
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備中高松城跡 |
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清水宗治のの首塚 |
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備中高松城資料館 |
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高松城の説明板 |
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備中高松城 |
高松城は、かつては深い堀と沼沢地に囲まれた毛利氏の堅固な要塞だったが、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の水攻めにあい、落城した。
本丸跡には宗治の首塚があり、現在は歴史公園として整備されている。
周囲には水攻め堤防跡蛙ヶ鼻や太閤腰掛岩が残り、また公園内にある資料館では清水宗治の像などさまざまな資料が展示されてる。 |
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県庁所在地:広島市中区基町10-52
面積:8,479平方q 人口:2,866人(H17年)
県花:モミジ 県木:モミジ |
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名称:福山城
城郭構造:輪郭式平山城
天守構造:複合式層塔型5重6階
築城主:水野勝成
築造年:1622年(元和8年)
遺構:櫓、石垣、門、鐘楼、
指定文化財:国の重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門)国の史跡
再建造物:天守、月見櫓、筋鉄御門、御湯殿
所在地:広島県福山市丸ノ内1-8
アクセス:JR「福山」駅から徒歩約5分
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筋鉄御門 |
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石垣 |
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天守から見る御湯殿 |
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棗(なつめ)木御門の冠木門 |
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福山城(日本100名城71) |
1619年(元和5年)徳川譜代の臣、水野勝成が備後10万石の領主となり福山に城を築いた。その後、水野氏5代、代わって松平氏1代、阿部氏10代と廃藩置県にいたるまで、福山城が藩治の中心となった。明治6年廃城となり、天守閣、伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊された。しかも、昭和20年の戦災により、天守閣と御湯殿を焼失したが、昭和41年秋に、天守閣と御湯殿、月見櫓が復元された。幸い焼失を免れた伏見櫓、筋鉄御門は昔日の姿を止め国の重要文化財に指定され、城地は国の史跡として保存されている。福山城は近世築城の最後のものとしてその完成された築城術の粋を誇るもので、全国城郭中屈指の名城としてたたえられている。 |
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名称:郡山城[通称:吉田郡山城]
城郭構造:山城
天守構造:不明
築城主:毛利時親
築造年:1336年(建武3年)
遺構:曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
指定文化財:国の史跡
所在地:広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山
アクセス:JR芸備線「吉田口」駅から備北交通バス「吉田営業所行」で約20分「市役所前」下車、徒歩約5分 |
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三の丸の石垣 |
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郡山城内堀(薬研堀)跡 |
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毛利元就の墓所 |
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展望台からの眺め |
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群山城(日本100名城72) |
1336年(建武3年)、安芸国吉田荘の地頭となった毛利時親が郡山に城を築いたのが吉田郡山城の始まりといわれる。以来、毛利氏は代々、郡山城を居城とした。毛利氏12代目にあたるのが中国地方を制した毛利元就である。元就が家督を継いで以降、毛利氏は大内氏の傘下となり尼子氏と敵対するようになる。
1540〜41年(天文9年〜10年)にかけて尼子晴久が30,000ともいわれる大軍で吉田郡山城を取り囲み、毛利軍は約8,000で籠城することとなる。籠城戦は4ヶ月以上に及んだが、元就は陶隆房率いる大内氏の援軍20,000とともに尼子軍を撃退し、吉田郡山城での戦いに勝利する。
その後、元就は郡山城を拠点に勢力を拡大していき、大内氏や尼子氏を滅ぼし中国地方の覇者となる。 |
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名称:広島城
城郭構造:輪郭式平城
天守構造:複合連結式望楼型5重5階(非現存)
築城主:毛利輝元
築造年:1589年(天正17年)
遺構:石垣、堀
指定文化財:国の史跡
所在地:広島県広島市中区基町
アクセス:JR広島駅から市内電車に乗車
紙屋町東又は西電停から15分 |
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二の丸表御門 |
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城内から見る太鼓櫓 |
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多門櫓と平櫓 |
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広島城天守閣の基石 |
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広島城(日本100名城73) |
広島城は天正7年(1589)毛利輝元によって起工され慶長4年(1599)に完成。 輝元は天正9年(1591)に広島に入城し九カ国(安芸、備後、周防、長門、出雲、石見、隠岐、備中半国、伯耆3群)を支配したが慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの敗戦によって周長2カ国に減封され福島正則が入城そののち正則も改易され浅野長晟が入り12代続き幕末に至る。 |
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県庁所在地:山口市滝町1-1
面積:6,113平方q 人口:1,456千人(H17年)
県花:夏みかんの花 県木:アカマツ |
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名称:岩国城(別名横山城)
城郭構造:連郭式山城
天守構造:複合式望楼型4重6階(非現存)
築城主:吉川広家
築造年:1601年(慶長6年)
遺構:隠居所長屋、石垣、水堀、空堀
再建造物:天守、旧天守台(発掘復元)
所在地:山口県岩国市横山3
アクセス:JR「岩国」駅から市営バス「錦帯橋行」で約20分「錦帯橋」下車、徒歩10分で岩国城ロープウェイ「山頂」下車、徒歩約5分 |
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天守台石垣 |
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岩国藩家老香川家長屋門
(山口県指定文化財) |
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大釣井。
築城時に造られた井戸 |
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二の丸から見た錦帯橋 |
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岩国城(日本100名城74) |
慶長5年、関ヶ原の合戦に敗れた毛利輝元は、長門・周防2ヶ国へと減封になる。 毛利氏存続のために奔走した吉川広家もまた、伯耆米子から3万石余を輝元から分知されて岩国に入封した。
広家は、慶長6年から横山山頂に山城である「要害・横山城」を、山麓に居館「土居」の築城を始め、慶長13年に完成した。 |
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名称:萩城[通称:指月城]
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:複合式望楼型5層5階
築城主:毛利輝元
築造年:1604年(慶長9年)
遺構:長屋、石垣、堀
指定文化財:国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)、国の史跡
再建造物:土塀
所在地:山口県萩市堀内字旧城1-1
アクセス:萩市内「まぁーるバス(西回り)「萩城跡下車、徒歩約4分 |
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萩城(日本100名城75) |
毛利輝元は、関ヶ原の戦いで西軍総大将にまつりあげられたが戦いの結果、西軍は東軍に敗れ、120万石の太守は、父祖伝来の安芸国をはじめ6ヶ国に及ぶ領国を削られ、防長2ヶ国37万石という並みの大名に甘んじる事となった。居城である広島城を失う形になった輝元は、やむなく周防・長門のうちに新城を築く事になり、当初候補地とされたのは防府、山口、萩の三箇所だったが、幕府の許可は防府、山口ではなく萩ということになり、1604年(慶長9年)に萩指月山麓で着工することになった。突貫工事であったとは言え、竣工までには4年の歳月を要している。以後、萩城は260年あまりに渡って長州藩の政庁としての機能を果たした。 |
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