歴史探訪 日本の城
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県庁所在地:福岡県博多区東公園7-7
面積:4,977平方q 人口:5,066千人(H17年)
県花:うめ 県木:つつじ
福岡城多門櫓 名称:福岡城[通称:舞鶴城、石城]
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:不明
築城主:黒田長政
築造年:1601年(慶長6年)
遺構:櫓4棟、門3棟、石垣、堀
指定文化財:国の史跡、国の重要文化財
再建造物:二の丸北隅櫓、大手門
所在地:福岡市中央区城内
アクセス:市営地下鉄空港線「赤坂」駅から
徒歩約5分
天守台石垣 南丸多門櫓と西隅櫓 祈念櫓 福岡城跡碑
福岡城(日本100名城85)
福岡城は、福岡初代藩主黒田長政によって、1601年(慶長6年)から7年をかけて築かれました。
前年に豊前国(大分県)中津から筑前に入国した当初は、小早川隆景の居城だった名島城に入りましたが、治政の都合からここ福崎の丘陵が新しい城を築く適地として選ばれました。
城の名前は、黒田家再興の故地である備前国(岡山県)邑久(おく)郡福岡にちなみ、福岡と名付けられました。
この城は、東側を那珂川で画し肥前堀・中堀を構え、西側の干潟地を深く掘って大堀とし、正面の北側は内堀を構えて海側に城下町を配し、搦手(からめて)である南側は赤坂山を掘り切って四周を水堀に囲まれた平山城としています。
城域は土塁や石垣によって三ノ丸・二ノ丸・本丸に区画され、石垣の上には47棟の櫓が設けられるなど、重厚な城構えとなっています。<福岡城跡の説明板より>
大野城100間石垣の一部 名称:大野城[通称:]
城郭構造:神籠石式山城
天守構造:なし
築城主:大和朝廷
築造年:飛鳥時代
遺構:石垣、土塁、門跡、礎石群
指定文化財:国の特別史跡
所在地:福岡県太宰府市太宰府字原ほか
アクセス:西鉄太宰府線「太宰府」駅から
徒歩約40分
太宰府口門へ続く土塁 百關ホ垣の一部 大野城全景図 大野城跡碑
大野城(日本100名城86 )
660年(斉明6年)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた。日本は百済を救うために大軍を派遣したが、663年(天智2年)、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、日本軍は撤退した。
以後、唐・新羅の侵攻に備えて、国防体制の充実が急がれ、大和朝廷は太宰府を防衛するために、664年(天智3年)水城(みずき)を築き、翌年の665年には、亡命百済貴族の憶礼福留、四比福夫に命じて大野城を築かせた。
大野城は四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は石塁を築き、城内には倉庫などが建てられた。このような構造を持った山城は、百済の山城がモデルとなっているので朝鮮式山城と呼ばれている。
<文は大野城跡説明板より>
県庁所在地:佐賀市城内1-1-59
面積:2,439平方q 人口:852千人(H17年)
県花:クスの花 県木:クス
名護屋城天守跡 名称:名護屋城[通称:名護屋御旅館]
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:5重7階(非現存) 築城主:豊臣秀吉 築造年:1591年(年) 遺構:石垣、空堀
指定文化財:国特別史跡
所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋
アクセス:JR筑肥線「唐津」駅から昭和バス唐津大手口発 「名護屋城博物館方面行」で約40分「名護屋博物館入口」下車、徒歩約5分
大手口門跡 二の丸長屋建物跡 天守台から玄界灘を望む 天守台跡と城跡碑
名護屋城(日本100名城87)
1591年(天正19年)、豊臣秀吉は朝鮮出陣の拠点として、黒田如水、加藤清正、小西行長、黒田長政による縄張り、九州の諸大名による天下普請によって名護屋城を築城した。 もとは、松浦党波多三河守親(ちかし)の家臣名護屋越前守経述の居城(垣添城)であった所を改造したものである。加藤清正が設計し、各大名に分担させてわずか5ヶ月で築城したといわれている。 この周辺には、徳川家康、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政、加藤清正など全国の諸大名が陣屋を築いていた。 7年に渡る朝鮮出兵は、1598年(慶長3年)8月に秀吉が大坂城で死去したことでようやく終わる。これと共に、名護屋城の役割も終了した。 
佐賀城大手門 名称:佐賀城
城郭構造:輪郭・梯郭複合式平城
天守構造:5重(非現存)
築城主:鍋島直茂・勝茂
築造年:1602年(慶長7年)
遺構:鯱の門及び続櫓,石垣,堀,移築御座の間
指定文化財:国の重要文化財(鯱の門及び続櫓)
所在地:佐賀県佐賀市城内2-18-1
アクセス:JR「佐賀」駅から佐賀市営バス「佐賀城跡行き」で約10分「佐賀城跡」下車すぐ
佐賀城本丸御殿 本丸御殿 天守台と石垣 天守台への登り口
佐賀城(日本100名城89 )
戦国期に西九州を席捲した龍造寺氏が本拠としていた村中城の地に建つ。龍造寺氏の衰退をうけて、重臣・鍋島直茂が領主となり、1608年(慶長13年)、旧主の村中城を拡張・整備し、城名も佐賀城と改めた。
直茂の子勝茂が初代佐賀藩主となり、1611年(慶長16年)に総普請を完成し本丸に入る。その後、佐賀藩は、11代直大のとき明治維新を迎える。
江戸時代の佐賀藩は、外様各藩の中でも、8番目の石高を誇り、藩祖鍋島直茂から11代鍋島直大まで260年もの長きにわたり、安定した藩政が行われていた。
吉野ヶ里遺跡の王宮と役所建物群

紀元前3世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。

弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代600年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集められている。

高床式住居 王宮と集会館 敵を防ぐ環濠と柵 王や部族長の集りを再現
吉野ヶ里(日本100名城88)
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵におよそ50ヘクタールにわたって遺構が残る、弥生時代 の大規模な環濠集落跡である。      物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本「城郭」の始まりと言われている。
唐津城天守閣 唐津城[通称:舞鶴城]
城郭構造:連格式平山城
天守構造:不明
築城主:寺沢広高
築造年:1608年(慶長13年)
遺構:石垣、堀
指定文化財:なし
再建造物:模擬天守、復元櫓、門、石垣、堀
所在地:佐賀県唐津市東城内
アクセス:JR唐津線唐津駅から徒歩約15分
藤棚と天守閣 櫓門 櫓門城内側 唐津城址碑
唐津城
唐津城(佐賀県唐津市東城内)は慶長十三年(1608)に完成した平山城。 城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれている。 城は本丸・二の丸・三の丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁があり、三の丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行がおかれていた。 城には寺沢氏以後は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城した。寺沢氏の十二万三千石ではじまり、廃藩前は六万石。(『城址案内板』より) 
県庁所在地:長崎市江戸町2-13
面積:4,105平方q 人口:1,432千人(H17年)
県花:雲仙ツツジ 県木:ツバキ、ヒノキ
平戸城天守閣 名称:平戸城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:3重5階/鉄筋コンクリート造模擬
築城主:松浦鎮信
築造年:1599年(慶長4年)
遺構:櫓、門、石垣、堀
指定文化財:なし
所在地:長崎県平戸市岩の上町14581
アクセス:松浦鉄道西九州線「たびら平戸口」西肥バス「平戸行き」で約10分「平戸市役所前」下車、約5分
北虎口門 天守閣からの懐柔櫓 地蔵坂櫓 地蔵坂櫓正面
平戸城(日本100名城90)
松浦家26代鎮信(しげのぶ)は1599年(慶長4年)、亀岡に「日の岳城」を築いた。しかし徳川家康は、豊臣秀吉と親交が深かった松浦家に疑いのまなざしを向けた。鎮信はその疑いを払うために「日の岳城」を焼却、平戸6万1千7百石を守った。 松浦家30代棟(たかし)となって幕府の許可を得て、1704年(宝永1年)、「平戸城」の再築を開始、1718年(享保3年)に完成した。これが今の平戸城(亀岡城)であり、本丸、二の丸、三の丸外郭により構成され、日の岳の輪郭が利用されている。この平戸城は山鹿素行の縄張によるもので、全国でも珍しい城と言える。
1871年(明治4年)廃藩置県により廃城、建物は現存する北虎口門・狸櫓を残して取り壊された。その後、1962年(昭和37年)、本丸に三重五階の模擬天守などが平戸市により復元された。
島原城天守閣 名称:島原城
城郭構造:連郭式平城
天守構造:独立式層塔型4重5階
築城主:松倉重政
築造年:1624年(寛永元年)
遺構:石垣、堀
指定文化財:島原市史跡
所在地:長崎県島原市城内1丁目1183-1
アクセス:島原鉄道島原駅から徒歩5分
城門 天守閣南面 御馬見所 松倉重政公を祀る祠
島原城(森岳城)(日本100名城91)
元和2年(1616)大和(奈良県)五条から島原に移封された松倉備後守重政は元和4年から7年余の歳月を費やして島原城を築いた。
城は昔(森岳)と呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名森岳城とも呼ばれている。
城は松倉氏、高力氏、松平氏、戸田氏、松平氏と4氏253年の居城であったが、明治7年(1874)廃城となった。昭和39年に天守が復元されたのをはじめ櫓も復元された。
県庁所在地:熊本市水前寺6-18-1
面積:7,405平方q 人口:1,815千人(H17年)
県花:リンドウ 県木:クスノキ
熊本城天守閣 名称:熊本城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:連結式望楼型3重6階地下1階
       (非現存)
築城主:千葉城(出田秀信)、熊本城(鹿子木
      親員)、熊本城(加藤清正)
築造年:1607年(慶長12年)熊本城
遺構:現存櫓、門、塀、石垣、堀
指定文化財:国の重要文化財(櫓、門、塀)
所在地:熊本県熊本市本丸1番1号
アクセス:熊本市電熊本城前下車すぐ
宇土櫓 本丸御殿全景 本丸御殿大広間 本丸御殿内蒔絵の天井
熊本城(日本100名城92)
日本三名城の一つに数えられる熊本城は天正16年(1588)肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年に完成した。
この城は、以後加藤家2代(44年)、細川家(239年)の居城となった。
明治10年(1877)西南の役で原因不明の出火で大部分を焼失した。現在の天守閣は昭和35年(1960)熊本市によって再建された。 
人吉城復元石垣 名称:人吉城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:なし
築城主:相良長頼
築造年:1204年(元久元年)
遺構:石垣、土塁
再建造物:櫓、塀
指定文化財:国の史跡
所在地:熊本県人吉市麓町
アクセス:JR肥薩線「人吉」駅から徒歩約10分
御下門跡 二の丸の石垣 堀合門。平成19年に復元 球磨川対岸から見た隅櫓
人吉城(日本100名城93)
人吉城は、鎌倉時代の1205年(元久2年)源頼朝の命により、人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼が、それまで平頼盛の家臣・矢瀬主馬佑が居城としていた城を修築して入城したのが始まりといわれている。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州平定に際して、20代相良長毎(ながつね)はいち早く臣従の意を示し人吉2万2千石が安堵された。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では長毎は戦の途中で東軍に寝返り、本領を再度安堵されている。以後、相良長毎を初代藩主として相良氏16代が続き明治を迎えたが、鎌倉時代から数えると35代670年もの長きにわたり、相良氏の居城として存在してきた。
鹿児島城の島津氏と並ぶ歴史の長さを誇る城と言える。
現在城跡は、堀と石垣と石段が残り、二の丸から本丸へは、急な石段が続いています。人吉城には天守閣は建てられず、望楼が代わりをしたと言われている。
北は球磨川、西は胸川が天然の堀をなす城郭である。
県庁所在地:大分市大手町3-1-1
面積:6,339平方q 人口:1,197千人(H17年)
県花:豊後梅 県木:豊後梅
府内城隅櫓 名称:府内城
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:不明(非現存)
築城主:福原高直
築造年:1597年(慶長2年)
遺構:櫓2棟、石垣、堀
指定文化財:大分県文化財
再建造物:櫓、門、橋
所在地:大分県大分市荷揚町73・75他
アクセス:JR日豊線「大分」駅から徒歩約15分
多門櫓門 東の丸石垣 廊下橋 西の丸石垣
府内城(日本100名城94)
江戸期の城。 1597年(慶長2年)に福原高直(石田三成の妹婿)によって築かれ、1601年(慶長6年)竹中重利(竹中半兵衛の子)によって増築された。竹中氏、日根野氏と城主は替わり、1658年(万治元年)に松平忠昭が入封し、以後松平氏が明治まで10代続いた。 
岡城の広大な石垣 名称:岡城
城郭構造:梯郭式山城
天守構造:複合連結層塔式(1774年再・非現存)
築城主:緒方惟義
築造年:1185年(文治元年)
遺構:石垣
指定文化財:国の史跡
所在地:大分県竹田市竹田2889
アクセス:JR豊肥本線「豊後竹田」からタクシーで約5分で観覧料徴収所(総役所跡)、徴収所から徒歩約20分で本丸跡
城内から見た大手門跡 本丸石垣 荒城の月の歌碑 本丸から見る九重連山
岡城(日本100名城95)
海抜325mの台地、岡城阯その広さは実面積で100万u、その広さは東京ドームの22個分にあたる。大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」と言われた天然の要塞であったことを感じさせられる。
瀧廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治34年(1900年)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
県庁所在地:宮崎市橘通東2-10-1
面積:7,734平方q 人口:1,132千人(H17年)
県花:はまゆう 県木:フェニックス
飫肥城大手門 名称:飫肥城
城郭構造:群郭式平山城
天守構造:建造されなかった。
築城主:土持氏
築造年:定かでない。
遺構:石垣
指定文化財:日南市史跡
所在地:宮崎県日南市飫肥10-1-2
アクセス:JR日南線「飫肥」駅から徒歩約15分
飫肥城歴史資料館 江戸期藩主の御殿松尾の丸 珍しい形の鉄砲狭間 御殿内御座の間
飫肥城(日本100名城96)
飫肥城は、築城年代は定かではないが正平年間に土持氏によって築かれたと云われている。
室町時代後期・戦国時代になると、島津氏が所領する飫肥城をめぐって伊東氏と島津氏が攻防を繰り返し永禄11年に伊東義祐が攻め取り、次男祐兵を城主とした。
天正5年島津氏の勢力が強まり、飫肥城は再び島津氏の所領となり上原長門守が城主となった。
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後、伊東祐兵が秀吉より飫肥5万1千石を与えられた。 以後、明治まで伊東氏は14代続いた。
県庁所在地:鹿児島市鴨池新町10-1
面積:9,188平方q 人口:1,711千人(H17年)
県花:ミヤマキリシマ 県木:カイコウズ
鹿児島(鶴丸)城跡碑 名称:鹿児島城(別名鶴丸城)
城郭構造:平山城
天守構造:なし
築城主:島津家久
築造年:1601年(慶長6年)
遺構:石垣、堀、石橋
指定文化財:鹿児島県史跡
所在地:鹿児島県鹿児島市城山町7-2
アクセス:JR日豊線「鹿児島」駅から徒歩約15分JR九州新幹線「鹿児島中央」駅から市電で約12分「市役所」駅から徒歩5分
御桜門跡 御桜門の枡形 本丸北東面の石垣 天障院(篤姫)の像
鹿児島城(鶴丸城)(日本100名城97)
1601年(慶長6年)島津家18代家久が、関ヶ原合戦の後、居館づくりを思い立ち着工しました。
家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、1606年(慶長11年)城の前の橋が完成したとされています。
城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていたといわれています。
県庁所在地:那覇市泉崎1-2-2
面積:2,275平方q 人口:1,385千人(H17年)
県花:デイゴ 県木:リュウキュウマツ
今帰仁城石垣 名称:今帰仁城[通称:北山城、今帰仁グスク]
城郭構造:山城
天守構造:なし
築城主:勇川按司?
築造年:13世紀?
遺構:城壁、石垣
指定文化財:国の史跡、世界遺産
所在地:沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874
アクセス:名護BTから本部循環線で約40分「今帰仁城跡入口」徒歩15分
今帰仁城跡碑 平郎門 大隅 今帰仁歴史文化センター
今帰仁城(北山城、今帰仁グスク)(日本100名城98)
今帰仁城は、琉球に統一王朝が樹立(1429年)される直前の三山時代(北山、中山、南山)の北山を治めた国王の居城。1416年に北山が中山に滅ぼされた後には、琉球王府から派遣された北山監守の居城となった。
北山は、沖縄本島の北部や周辺の離島を治め、中国(明)との進貢・交易も行われ栄えていた。 
中城城三の郭石垣 名称:中城城
城郭構造:山城
天守構造:なし
築城主:先中城按司?
築造年:14世紀後半
遺構:石門、城壁、石垣
指定文化財:国の史跡、世界遺産
所在地:沖縄県中頭郡中城村泊1258
アクセス:那覇BTから「宜野湾市行き」約50分「普天間入口」下車タクシーに乗り継ぎ約5分
中城城跡碑 アーチが美しい裏門 正門(櫓門) 城内から見る風景
中城城(なかぐすくじょう)(日本100名城99)
この城の築城は、読谷山按司護佐丸(ごさまる)といわれています。城の構造は東北から西南にのびる連郭式に築かれた城で、三の丸、二の丸、本丸は、それぞれ堅牢優美な石塁で囲まれ、石の階段と門でそれぞれの郭に通じています。とくに三の丸の城壁のように外から見えるものは五角形の石を組み合わせ、またアーチ門の回りは特に大きな切石を用い、石塁の角が丸みを帯びているのも特徴があります。 城の規模は必ずしも大きいとはいえませんが、東南側は自然の絶壁をなし、西北側は10メートルほど低い位置で外郭の石塁が走り、城の経始には日本中世の城に似たものがあります。 中城城は、一部修理が施されていますが、当初の遺構をほとんどそのまま残し、その技法や構造において一層の完成度を示しています。しかもこの城こそが沖縄における中央集権の確立に主要な役割を果たし、中世的な戦乱の最後の築城であったことはきわめて注目すべきことです。 <中城城の石板より> 
守礼門 首里城[通称:御城(ウグシク)]
城郭構造:山城
天守構造:なし
築城主:不明
築造年:14世紀末?
遺構:石門、石垣
指定文化財:国の史跡、世界遺産
再建造物:正殿、門、御嶽、城壁
所在地:沖縄県那覇市首里当蔵町3
アクセス:ゆいレール「首里」駅から徒歩約15分
首里城正殿 ライトアップされた正殿 首里城北殿 ライトアップされた北殿
正殿内玉座 鎖之間と庭園 正殿前広場の模型 午前8時30分開門儀式
首里城(日本100名城100)
首里城は、西暦1400年前後に北山、中山、南山と呼ばれ3つの大きな勢力が争っていたが中山の尚巴志(しょうはし)王によって1492年に平定・統一され、後に続く琉球王国国王の居城とされた。
1879年に明治政府によって沖縄県が設置されるまでの琉球王国は、東南アジア、中国大陸、日本と交流しながら独自独特の文化を創造してきた。
首里城はその文化を創り出す拠点となった琉球王国のシンボルである。
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