歴史探訪 日本の城
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茨城県 県庁所在地:水戸市笠原町978-6
面積:6,095平方q 人口:2,967千人(H17年)
県花:バラ 県木:ウメ
水戸城薬医門の写真 名称:水戸城[通称:馬場城、水府城]
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:なし
築城主:馬場資幹
築造年:1190年-1198年(建久年間)
遺構:門1棟、藩校、土塁、空堀
指定文化財:国の特別史跡
所在地:<br>茨城県水戸市三の丸
アクセス:JR常磐線「水戸」駅から徒歩約8分
弘道館へ通じる門 旧水戸藩の藩校弘道館 現在の大手橋 三の丸空堀
水戸城(日本100名城14)
水戸城は建久年間(1190〜99)に築城されたのが始まりとされている。その後、常陸国統一を果たした佐竹氏が54万5800石を領する全国8位の大大名となり居城を太田城から水戸城に移し、城郭の改修、城下町の整備など行なったといわれている。佐竹氏は関ヶ原の戦いで東西中立を保った為、久保田21万石に減封され、変わって徳川家康7男武田信吉を封じ、10男頼将を経て1609年(慶長14年)からは11男頼房が25万石で入封し徳川御三家の中の水戸徳川家が確立した。水戸黄門として有名な水戸光圀は水戸藩二代目当主である。また水戸藩には当時では全国的に見ても最高峰とされた藩校弘道館や日本三大名園の1つとされる偕楽園などの文化的施設もあった。
栃木県 県庁所在地:宇都宮市塙田1-1-20
面積:6,408平方q 人口:2,010千人(H17年)
県花:やしおつつじ 県木:トチノキ
鑁阿寺の太鼓橋の写真 名称:足利氏館[現在は鑁阿寺(ばんあじ)]
城郭構造:居館>
天守構造:なし
築城主:足利義康
築造年:12世紀中頃
遺構:石垣、堀
指定文化財:国の史跡
再建造物:
所在地:栃木県足利市家富町
アクセス:JR両毛線「足利」駅から徒歩約10分
土塁、水堀 楼門 鐘楼 多宝塔
足利氏館(日本100名城15)
平安末期、源義国(八幡太郎源義家の子、足利・新田氏の祖)が居館を構築。居館の敷地はほぼ正方形であったといわれているがその周りに水掘りと土塁をめぐらし4つの門がある。
上古の豪族の居館を原形のまま今日に伝え近世城郭の形をも表している。
1196年(建久7年)足利義兼が邸内に持仏堂を建立し、足利氏の氏寺(鑁阿寺→ばんなじ)になったといわれている。
群馬県 県庁所在地:前橋市大手町1-1-1
面積:6,363平方q 人口:2,006千人(H17年)
県花:くろまつ 県木:れんげつつじ
箕輪城大手虎韜門口の写真 名称:箕輪城
城郭構造:梯郭式平山城
天守構造:なし
築城主:長野業尚
築造年:1512年(永正9年)
遺構:石垣、空堀、土塁、馬出し、井戸
指定文化財:国の史跡
所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋
アクセス:JR信越本線「高崎」駅から群馬バス「箕郷行」約30分「箕郷本町」下車、徒歩約20分
本丸跡 二の丸跡 三の丸跡 御前曲輪井戸
箕輪城(日本100名城16)
箕輪城は、戦国時代に西上州に勢力を張った長野氏の居城として整備された。
1566年(永禄9年)、甲斐の武田信玄は碓氷峠を越えて西上州を侵攻し、箕輪城を攻めた。戦いに敗れた長野業政の息子、氏業ほか一族郎党は御前曲輪にて自刃する。
武田信玄はこの城に内藤昌豊を置き、西上野の拠点としたが、武田氏滅亡後は北条氏の傘下に入り、信濃の徳川や越後の上杉に対する北の守りとなっていたが、豊臣秀吉による小田原侵攻の際に前田・上杉・真田連合軍の前に降伏した。
徳川家康の関東移封に伴い、箕輪城は井伊直政へ十二万石にて与えられ、井伊氏により改修されたが、慶長3年、井伊直政は高崎城を築城し移ったため、廃城となった。
金山城跡の写真 名称:金山城[通称:太田金山城]
城郭構造:連郭式山城
天守構造:なし
築城主:岩松家純
築造年:1469年(文明元年)
遺構:石垣、土塁、堀、馬出し、井戸
指定文化財:国の史跡
所在地:群馬県太田市金山町40-98
アクセス:東武伊勢崎線「太田」駅から徒歩約50分
大手虎口 大手虎口付近の曲輪 月の池 本丸跡の新田神社
金山城(日本100名城17)
 金山城は1469年(応仁3年)に新田氏の一族の岩松氏が重臣横瀬国繁に命じて築城した。
ところが、その後、横瀬氏は岩松氏から実験を奪い金山城主となる。
そして、由良氏と改称して戦国大名となり、天正年間の最盛期には新田、桐生、赤石、館林、足利などを手中に収めて、東上野に君臨して、金山城も難攻不落の城と言われた。
1584年(天正12年)小田原北条氏に由良国繁とその弟で館林城主長尾顕長が幽閉され、金山城は北条氏により攻撃されたが、国繁と長尾顕長の帰還を条件に金山城を北条氏に明け渡し、由良氏は桐生城に退いた。金山城には北条氏の家臣が入るが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、金山城は廃城となる。
埼玉県 県庁所在地:浦和市高砂3-15-1
面積:3,797平方q 人口:7,170千人(H17年)
県花:サクラソウ 県木:ケヤキ
鉢形城復元四脚門の写真 名称:鉢形城
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:なし
築城主:長尾景春
築造年:1476年(文明8年)
遺構:土塁、堀
指定文化財:国の史跡
所在地:埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
アクセス:JR八高線、秩父鉄道、東武東上線「寄居」駅から徒歩約25分
三の曲輪 二の曲輪 虎口の復元石塁 鉢形城歴史館入口の門
鉢形城(日本100名城18)
鉢形城の起源は古代、平将門に遡るが、はっきりしたことは分かっていない。
1546年(天文15年)、河越夜戦によって上杉・足利連合軍を撃退した後北条氏(北条早雲以下5代)は上杉氏を関東より追放、天神山城に入った北条氏邦は甲斐武田氏の備えから本拠を鉢形城に移し、改修して大城郭に変貌させた。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、氏邦は1000人余りの軍勢を率いて小田原城にはせ参じた。
鉢形城には重臣以下3,300人が立てこもって応戦したが、前田利家・上杉景勝率いる5万の軍勢はたちまち鉢形の支城網を落としていき、鉢形城は孤立、城兵の守りもむなしくついに落城する。
川越城本丸御殿の写真 名称:川越城[通称:初雁城、霧隠城]
城郭構造:平山城
築城主:太田道真、道灌親子
築造年:1457年(長禄元年)
遺構:堀、土塁、御殿の一部
指定文化財:埼玉県有形文化財
所在地:埼玉県川越市郭町2-13-1>
アクセス:JR川越線・東武東上線「川越」駅から東武バス「神明町車庫行」で約10分「札の辻」下車徒歩約8分
御殿内部 御殿内中庭 御殿内の築山 中ノ門堀跡
川越城(日本100名城19)
川越城は、扇谷上杉持朝(もちとも)が1457年(長禄元年)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城させたものである。 小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、1537年(天文6年)に川越城を攻め落とした。 1546年(天文15年)、扇谷上杉氏は、それまで対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び川越城奪回を図るが奇襲ににあい大敗する(川越夜戦)。 その後、後北条氏は川越城を足がかりとして北武蔵への支配を固めていった。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて落城した。 同年8月徳川家康は江戸に入城する。 川越城には江戸の北を守る重要拠点として酒井氏が配置され、その後も幕府の要職にある大名が藩主に任じられた。 現在は玄関・広間部分と移築復元された家老詰所を残すのみであるが、日本国内でも御殿建築が現存する例は極めて少なく貴重であると言われている。
千葉県 県庁所在地:千葉市中央区市場町1-1
面積:5,156平方q 人口:6,183千人(H17年)
県花:なのはな 県木:マキ
佐倉城の馬出しと空堀の写真 名称:佐倉城[通称:鹿島城]
城郭構造:連郭式平山城
天守構造:御三階櫓(独立式層塔型3重4階)
築城主:鹿島親幹
築造年:天文年間?
遺構:土塁、堀
指定文化財:佐倉市史跡
所在地:千葉県佐倉市城内町官有無番地
アクセス:JR総武本線「佐倉」駅から徒歩約25分
本丸内の土塁 本丸跡 台所門跡(不明門) 武家屋敷旧但馬家住宅
佐倉城(日本100名城20)
1617年(元和3年) 佐倉城は江戸防衛の要衝として、西の小田原城、北の川越城、そして江戸東方の拠点となり、江戸城を取り巻く要衝として徳川譜代の有力大名が封じられた。老中職についた城主が徳川各藩中最多を数え、老中の城 等と言われ、家康が老中.土井利勝に築城させた関東有数の壮大な城郭である。 土井利勝は家康、秀忠、家光に仕え、徳川幕藩体制の基礎を固めた智略の人である。 1611年(慶長16年)戦国期の鹿島城跡に6年掛けて近世佐倉城を完成させた。 城は北に広大な印旛沼を控え、印旛沼に続く低湿地帯で西は鹿島川、南は高崎川を眼下に見下ろす鹿島台地に20万坪を有する平山城である。
東京都 都庁所在地:新宿区西新宿2-8-1
面積:2,187平方q 人口:12,988千人(H17年)
都花:ソメイヨシノ 都木:イチョ
江戸城二重橋の写真 名称:江戸城(千代田城)
城郭構造:輪郭式平山城
天守構造:独立式層塔型5重5階地下1階
     (非現存)
築城主:太田道灌
築造年:1457年(長禄元年)
遺構:櫓、門、石垣、土塁、堀
指定文化財:国の重要文化財(桜田門、田安
      門、清水門)
所在地:東京都千代田区千代田
アクセス:JR東京駅から徒歩5分
巽櫓 天守台 中の門 桜田濠
江戸城(日本100名城21)
江戸城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌により築城された。
徳川家康が幕府を開いた後は徳川将軍家の居城として武家政治の中心となった。
明治維新以後は、宮城、皇居となり現在に至っている。
八王子城御主殿へ通じる冠木門の写真 名称:八王子城
城郭構造:山城
築城主:北条氏照
築造年:1587年(天正18年)
遺構:石垣、曲輪、御主殿跡
指定文化財:国の史跡
再建造物:石垣、虎口、引き橋
所在地:東京都八王子市元八王子町
アクセス:JR中央本線「高尾」駅から多摩バス「霊園正門経由」で約5分「霊園前」下車、徒歩約20分
曳橋 虎口 御主殿石垣 御主殿跡
八王子城(日本100名城22)
八王子城は、現在の同市元八王子町に16世紀後半、北条氏照が築城した山城。標高466メートルの山を有効に生かした戦国時代の山城である。武蔵地域で勢力を誇っていた北条氏の最大の支城で、1590年(天正18年)年6月、天下統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた前田利家と上杉景勝らの軍に一日で攻め落とされ、小田原開城のきっかけとなり、豊臣秀吉の天下統一への大きな足がかりとなった。
神奈川県 県庁所在地:横浜市中区日本大通1
面積:2,415平方q 人口:9,005千人(H17年)
県花:やまゆり 県木:いちょう
夕日に輝く小田原城天守閣の写真 名称:小田原城[通称:小峰城、小早川城]
城郭構造:平山城
天守構造:複合式層塔型3重4階
築城主:大森頼春
築造年:1417年(応永24年)
遺構:石垣、土塁、堀
指定文化財:国の史跡
再建造物:天守、門
所在地:神奈川県小田原市城内6-1
アクセス:JR東海道線、小田急小田原線「小田
     原」駅から徒歩約10分
銅門(あかがねもん) 二の丸隅櫓 学橋 水掘
小田原城(日本100名城23)
小田原城は15世紀初め頃、大森氏によって築かれた。1495年(明応4年)に戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点となり、豊臣秀吉の来攻に備えて、1587年(天正15年)から修築と拡張に力を注ぎ、三の丸外郭に総延長12qに及ぶ土塁と空堀による壮大な総構えを築き日本最大の城郭となった。天守閣は、五代目氏直のときに初めて築かれた。
1590年(天正18年)に押し寄せた秀吉軍30万の大軍もさすがに攻めあぐね、小田原篭城戦は100日に及び、その間北条氏方は城内にて、あの有名な小田原評定を繰りかえし、最後は秀吉方の調略によって、小田原城を開城させ、後北条氏は滅亡した。
江戸時代は徳川家康の家臣・大久保氏が城主となり、城の規模は三の丸以内に縮小された。その後、稲葉氏が一時城主となるが再び大久保氏が城主となり、幕末まで続いた。
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